たまりば

芸術・創作 芸術・創作日野市 日野市

光の人

光の人

あの日は妊娠中だったか。
とにかく日中、家にいた。
「第九のコンサートに夫婦で出演したいんだが、申込用紙に字が書けない。僕らの名前を書いてポストへ投函してくれないか」という依頼の電話が入った。
成川米吉さんの声だった。
米吉さんには、節子さんという妻が居て、お二人とも全盲である。
ご夫妻に出会ったのは7歳の時だった。私が芝居を始めたのが7歳で、以降公演に必ず来て下さるのがご夫妻だった。とくに米吉さんは、進学、就職、結婚、出産のタイミングで必ずお祝いをくれ、その贈り物は、いつも星や宝石やカラフルな飾りがついた物になっていた。
又、私が以前所属していた劇団が創立30周年を迎えた際、記念冊子に文章を書いた時、ご夫妻は、その冊子を購入してくれ、その何日か後「いくちゃん、点字にして読んでみたよ。なかなかいい冊子だったね」と言ってくれたのだが、当時の劇団代表が「僕らは何もしていない。最初から僕らが点字の冊子を作るべきだった」と言った言葉が私をおおいに反省させた。
ご夫妻はいつも笑っていた。
誰かが怒っていても泣いていても、声を出して笑い、誰もが黙っている時も、声は出さずに笑顔だった。
一緒に山登りをしても、温泉に行っても、病気で肺を片方切除している米吉さんには努力が要った事だろう。
それでも、途中でしゃがみ込んでは笑う米吉さんの、すぐ傍には節子さんが一緒に笑ってしゃがみ込んでいた。
ご夫妻は、自立して生きて行くと決めてから、その意思がぶれることは無く、生活をし、地域の文化活動に積極的に参加。
一度、何かのイベントの帰りに、一緒にタクシーに乗った事がある。
米吉さんが障害者手帳を出した瞬間「めんどくせえんだよな・・・・」と言った運転手に「すみません。そうですよね」と謝り、その後、運転手の愚痴を頷きながら聞くお二人の姿に立ち会った。それは生まれて初めて私が「弱者」を見た瞬間だったかもしれない。
新年が明け、1月5日。
米吉さんが亡くなった。
葬儀はお二人が結婚後に巣立った、日野市の「光の家」という施設で盛大に行われた。
参列者には利用者の方も多く見られ、その目に涙がこぼれていたかは定かではない。でも私は忘れない。式終盤で、讃美歌の539番を歌う際、歌詞を見ながら歌おうとおたおた準備する私を横に利用者の方々がすくっと立ちあがり、空で歌いあげた、その声と背中は、飾り様のない真の「泣き」であった。
この人達は、こうして人を送り出して来たのだろう。
この人達は、こうして見えないものを見て来たのだろう。
この人達は、こうして本当の強さを見せているのだろう。
献花を終え、妻の節子さんの前に立つと、いつも笑っていた節子さんがひぃひぃ泣いていた。
私は、すっかり小さくなった節子さんの冷たい手を握り、この人達が弱者では無い事を知った。
多くの弔辞の中の一つに「米吉さんと節子さんが第九のコンサートで歌われていました。とても素晴らしかった」というものがあった。
あの時の応募ハガキだった。
式が終わり、帰宅して、私は一人でわんわん泣いた。
彼らの歌を聴きたかった。
「来て」と言わない彼らに甘えた私とご夫妻の距離は果てしなく遠かった。
祖父が逝き、叔母が逝き、恩師が逝き、仲間が逝き、別れの多い最近。逝かれた人全てが私を動かし、逝かれた人全ての歴史が、私のチャンネルを変えている。

劇団PASSKEYの次回作「AGAIN」で演じる役名は、光だ。



  • 2012年01月12日 Posted byIKUMI at 13:20 │Comments(0)日常

    上の画像に書かれている文字を入力して下さい
     
    <ご注意>
    書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。